逆立ちをしてみる

逆立ちって、体にすごくいいらしい。

内臓の位置が、ナチュラルに、あるべきところに戻るらしい。

でも、中学生くらいの時以来、逆立ちをしたことがないし、もはや腕の力も全然ないので、きっと今はできないと思う。


逆立ちは、体だけではなく、意識にとってもものすごく重要だ。

意識の逆立ち。

どういうことか、というと、ものごとの因果関係を逆にして見てみる、ということだ。

原因があって、結果がある、ということは、誰もが知っていることだと思う。

そして、その原因と結果の感じ方は、ほぼみな同じ。


たとえば、昨日こんなことがあった。


息子が、「今日の晩ご飯は何?」と聞くので、「鳥釜めしと鮭フライだよ」と答えた。

すると、「俺は釜めしは嫌いだ、鶏肉はもっと有効につかってよ」と息子が言った。

息子は、好き嫌いというよりも、好きなものしか食べたくない、という様子をこの15年ほど見せてきている。

わたしは、「まーた文句だよ。自分が食べたいものしか喜ばない、めんこくない、作ってくれたものを何でも喜んで食べれないかね。あーあ、作りたくない。面倒くさい。」という、これまた15年ほどの変わらない同じ思いが瞬時に沸いてくる。

なので、すぐにそれが言葉になって出てくる。

すると、息子も気分が悪くなり、「じゃあ何でも勝手に作れよ」と言い捨てて部屋にこもる。

なのでわたしも、イライラマックスになり、部屋に向かって、

「わたしは飯炊きの召使いじゃないよ!!」と、嫌味の一つも言ってしまう。

そして、この狭い家は、険悪なエネルギーで充満し、茶トラ猫のレオンすら姿を何処かにくらましてしまう。


さて、しばらくの間は、頭に血が上っていて、かなり息子を責める思い、思考が収まらない。

「あの子は、好きなものしか食べない。」

「わたしが一生懸命からだのことや健康を気にしながら料理を作っても、全然理解していない」

「何を作っても喜ばない」

「感謝がない」

「あの子のわがままのせいで、わたしは苦労させられる、嫌な思いをさせられる」


このトラブルの原因は、息子にある。

そして、息子のわがままのせいで、ケンカという結果になった。

それが、普通のわたしの思考パターンなのだ。


人は、だいたい、このように、表面的な因果関係しかつかまえることができない。

だから、相手を変えるか、自分が我慢するか、あるいは言いたいことを言うとか、表面的な対策しか浮かばない。


けれども、意識の逆立ちをしてみると、面白い答えが見えてくる。


昨日のわたしの場合は、「息子は好きなものしか食べない」という状態を、ずっとわたしが続けさせてきている、


つまり、わたしの無意識に「原因」がある、とわかってくる。


それは、しつけがなっていなかった、ということではない。

わたしのなかの、息子に対するイメージを、この15年間変えてこなかった、ということだ。


わたしの中のイメージが変わらない限り、彼は変わらないのだ。


わたしが彼に対して、「好きなものしか食べない」というイメージをずっと持っていて、「だからわたしはいろいろ苦労するのだ」ということをもう当たり前とイメージしているのだから、


当然、わたしが手にする結果は、「苦労」だ。


召使いが抱える苦労。


それを無意識は「だって、そうじゃん」と信じ切っていて、他のイメージが埋もれてしまっている。


やだやだやだー!


わたしは召使いじゃないぞ!!!



・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ、何?


まあ、ここからは、セルフセラピーをやるわけで、自分なりにスッキリ納得の着地点を見出すので、めでたしめでたしなのだが、


つくづく、わたしたちは、表面的なことしか見ていないのだな、と感じる。

逆立ちをしてみないと、見えてこないものがあり、

でも、それこそが、真実であるような気がする。

意識の逆立ちは、心の目を正常な位置に戻してくれる。


昨夜は、息子のせいで気分をすこぶる損ねてしまった、というような態度をしてしまい、息子には申し訳なかった。

でも、謝るよりも、わたしが召使いであることをやめ、苦労することをやめ、料理することに対してあらたなイメージを持って行動していくことで、きっと食事は楽しくなる。

それでいいんじゃないかと思っている。







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